この文章について

学校に行かない、行けない子どもたちへの向き合い方には、さまざまな考え方があります。
保護者、学校の先生、フリースクールのスタッフ、支援者など、それぞれの立場によって見え方は異なりますし、何が唯一の正解なのかが明確に証明されているわけでもありません。
そのような中で、私たちはこれまで、あえて自分たちの考えを強く主張しすぎないようにしてきました。
子ども一人ひとりの状況が違うこと、家庭ごとに事情や思いがあることを大切にしたかったからです。
しかし一方で、日々子どもたちと関わり、不登校支援やフリースクールの運営に携わる立場として、自分たちが大切にしたい考えを言葉にせずにいることも、また不誠実なのではないかと思うようになりました。
また、今後スタッフやボランティアの方々とよりよい形で子どもたちに関わっていくためにも、ミエルの里として大切にしている考えを共有しておきたいと思いました。
ここに書くことは、すべての子どもに当てはまる唯一の正解ではありません。
けれども、私たちは現時点で、このように考えながら子どもたちと向き合っています。
学校だけが育ちの場ではない

私たちは、本来、子どもが社会の中で生きていく力を育てていく場所は、学校だけである必要はないと考えています。
子どもが育つ場、学ぶ場、人と関わる場は、本来的にはもっと多様であってよいはずです。
にもかかわらず、現実には多くの家庭が、就学年齢になると「学校に行くこと」を前提として考えます。
それは多くの場合、親自身がそうしてきたこと、そして周りの子どもたちもみな学校に通っていることが大きいのだと思います。
もちろん、学校には多くの価値があります。
友だちと出会い、集団の中で過ごし、さまざまな経験を重ねることができる、大切な場です。
実際に、多くの子どもにとって学校は成長の場になっています。
ただその一方で、学校という環境がどうしても合わない子どもが一定数いることも、自然なことだと私たちは考えています。
学校という環境が合わない子どももいる
30人以上が同じ教室で長時間一緒に過ごすこと。
毎日、決まった時間に座って、全員が同じ内容の授業を受けること。
さまざまな気質や発達段階の子どもたちと、密な人間関係の中で過ごすこと。
先生との関係が、幼児期よりもずっと遠くなりやすいこと。
集団生活を安全に、効率よく成り立たせるために作られた多くのルールや時間割の中で生活すること。
こうした学校の仕組みは、多くの子どもにとっては何とか適応できるものであっても、ある子どもにとっては耐え難い負担になります。
特に、人の多さや雰囲気に敏感な子、自由の少なさに強いストレスを感じる子、先生との距離や教室内の緊張感に大きく影響を受ける子にとって、学校は毎日かなりのエネルギーを必要とする場所になります。
それは、わがままでも甘えでもなく、その子の感じ方や特性によるものです。
不登校は心身からのサインかもしれない
私たちは、不登校を、子どもの心や身体が「この環境は今の自分には合わない」と示しているサインであると考えています。
もちろん、学校に行きたくない日が誰にでもあるように、一時的な気持ちの揺れもあるでしょう。
けれども、強い不安、腹痛や頭痛などの身体症状、朝になると動けなくなる状態、表情の変化、極端な疲れや苛立ちなどが続くとき、それは「がんばりが足りない」のではなく、すでに無理が重なっている状態だと考えています。
それにもかかわらず、大人はそのサインを見逃してしまうことがあります。
自分も子どもの頃は学校に行っていたから。
学校は多少つらくても行くものだと思っているから。
休ませることで、ますます行けなくなるのではないかと不安になるから。
あるいは、親自身の仕事や生活への影響もあり、何とか登校してほしいと願うからです。
そうした大人の思いは、とても自然なものです。
けれども、その不安や期待が、結果として子どもにとって大きな圧力になってしまうことがあります。
「学校には行きたいけど、行けない」という言葉について

不登校の子どもの中には、「学校には行きたいけど、行けない」と話す子が多くいます。
その言葉には、本人の葛藤がにじんでいます。
友だちと離れたくない気持ちもあるでしょう。
本当はみんなと同じように過ごしたいという願いもあるかもしれません。
親や先生を安心させたい気持ちもあるでしょう。
また、「学校には行くべきだ」という周囲の空気を敏感に感じ取り、自分でもそう思い込んでいることもあります。
私たちは、この言葉を大切に受け止めたいと思っています。
ただ同時に、その言葉だけを頼りに「学校に行きたいのなら、やはり学校に戻した方がよい」と急ぎすぎることには慎重でありたいと思っています。
なぜなら、言葉では「行きたい」と言っていても、心身は明らかに拒否反応を示している場合があるからです。
学校復帰を最初の目標にしない
親と一緒なら行けるかもしれない。
短時間なら行けるかもしれない。
別室なら大丈夫かもしれない。
そうした工夫が、その子にとって本当に安心できる支えになる場合もあります。
それ自体を否定したいわけではありません。
けれども、学校という環境そのものが強い負担になっている場合には、形を変えて通い続けること自体が、子どもにとって消耗の積み重ねになることもあります。
また、そのような特別な配慮があること自体に、つらさや居心地の悪さを感じる子もいます。
だから私たちは、「どうすれば学校に行けるか」を最初の問いにはしません。
この問いから始めてしまうと、結果として「なんで行けないの?」「何がだめなの?」という、子どもを追い詰める関わりにつながりやすいと感じているからです。
私たちが大切にしたいのは、「この子にとって今、安心して生きられる場所はどこか」「この子が少しずつ元気を取り戻し、自分らしく育っていける環境はどこか」という問いです。
別の場所で生きる力を育てていけばいい
学校が合わないのであれば、別の場所で生きる力を育てていけばいい。
私たちはそう考えています。
大人数の中で過ごすことが苦手でも、少人数の場では安心して過ごせる子がいます。
一斉授業は苦しくても、自分のペースなら学べる子がいます。
学校では自信を失っていても、別の場所では表情を取り戻し、人との関わりを楽しみ、意欲を見せる子がいます。
社会の中で生きることは、必ずしも大人数の集団に適応することだけを意味しません。
数人で働く生き方もあります。
一人で力を発揮する生き方もあります。
家庭や地域の中で役割を担いながら生きていく道もあります。
大切なのは、その子に合った形で、自分らしく他者や社会とつながっていけることだと思います。
親の安心が子どもを支える

そして、そのためにとても大切なのが、親の幸せと安心です。
子どもは、親の不安や焦りをとても敏感に感じ取ります。
「このままで大丈夫なのだろうか」
「学校に行かないと将来困るのではないか」
そうした思いが家庭の中にあると、子どもは親を安心させようとして無理をしたり、自分の本音を言えなくなったりすることがあります。
反対に、親が少しずつ安心し、今の子どもの状態を受け止め、目の前のわが子を信じられるようになると、子どももまた安心して心を休められるようになります。
そして、十分に安心できた子どもは、自分から少しずつ動き始めます。
それが「学校に行ってみたい」かもしれませんし、別の居場所を探すことかもしれません。
勉強を再開することかもしれませんし、人とのつながりを求めることかもしれません。
小中学校に行っていない時期があっても、自分の居場所を見つけて過ごした子の多くは、その後、高校や大学、専門学校など何らかの学びにつながっています。
どの道を選ぶにしても、大人は不安ではなく、子どもの内側から出てくる力を信頼することが大切だと、私たちは考えています。
ミエルの里が大切にしたいこと

ミエルの里は、子どもを学校に戻すことだけを目的にした場所ではありません。
また、学校を否定するための場所でもありません。
学校という場が合う子には、学校がよい場になりえますし、学校とのつながりが力になることもあります。
その一方で、今の学校環境が苦しい子にとっては、別の居場所や別の学び方が必要です。
私たちは、次のようなことを大切にしたいと思っています。
安心できること。
自分の気持ちを出せること。
人や社会とのつながりを、自分に合った形で持てること。
学びを、自分のものとして取り戻していけること。
子どもたちは、一人ひとり違います。
育ち方も、感じ方も、回復の仕方も、未来の形も同じではありません。
だからこそ、私たちは一つの正しさに子どもを当てはめるのではなく、その子に合った道を一緒に探していきたいと思っています。
